ジャニーズアイドルの本から見る解散の歴史(前)

以前「西暦2014年、スマ歴24年」というタイトルのブログ記事を書きました。これは、SMAP以前はジャニーズのアイドルグループも解散することが当たり前だったことを記したものでした。まあ結局SMAPがすごい!という話だったわけですが、あれから周囲ではまた「どうして女子アイドルは解散・卒業するのに、男性アイドルは30代40代になってもアイドルを続けていられるのか」といったことが話題になったりしています。

アイドルの解散や脱退について考えるとき、「売れなかったので契約が更新されず、事務所を移ることになった」とか「プロデューサーに解散に追い込まれた」といったことがあるのではないかと想像してしまいます。しかし2012年にNEWSのメンバーが脱退した際のエピソードを見てみると、残った4人が「事務所からは解散を勧められたけど4人でやっていくことに決めた」と語っているのです。たとえ事務所から勧められても「解散しない」という選択肢はありなんだ、と驚きました。そして逆に、解散にいたる場合にはどのような理由があるのか、気になるようになりました。

そんなわけで、今回は元ジャニーズの方たちが書いたいくつもの「アイドル本(タレント本)」から解散・脱退・移籍に至る経緯を抜き出し、その原因を分析、「解散しない」ためにはどういった環境が必要なのかを探っていきたいな〜と思ってます。ただあくまでも本人たちの名を冠した著書にある記述を資料としているため、その真偽や裏事情などについては、私個人が判断できるところではありませんので、ご了承ください。

それでは、実際に資料を見ていきましょう。これだけでかなり長くなってしまっておりますので、全体の傾向などについて先に読みたい場合は後編へとんでいただければ幸いです。

1967年 ジャニーズ

最初のグループ「ジャニーズ」。人気の最盛期にアメリカへわたったものの、そこで発生した事務所との金銭トラブルからメンバーの真家ひろみが脱退を決意、そのまま解散となりました*1。ちなみに真家ひろみも本*2を出しており、ジャニーズ時代の話を書いていますが、解散についての記述はありません。

アメリカでの生活も終わりを告げようとしていたある日の午後……。私は、一人でマー坊(注:ジャニー喜多川氏の兄)宅の応接間に向かって歩いていました。その時です。
「……大変だ。もう、何もかも……」
声が小さいのでよく聞き取れませんでしたが、私にはだいたい察しがつく言葉でした。その声は真家で、その部屋にはあおいも飯野も一緒にいます。
「何を言うんだよ、突然!」
誰かが驚いた声をあげました。私は、胸が破裂しそうに高鳴りました。
(中略)
なぜ、なぜ、こんな時期に……解散なんてことが身にふりかかったのか。
しかし、どんなにみんなが引き留めようと、真家の決意は堅く、解散するということは現実になっていたのです。
仕事の予定が42年の11月までびっしり入っているので、それまでは解散は表明せずにやり通すということを約束して、我々は真家の独断を認めなければいけませんでした。(中谷良,1989年『ジャニーズの逆襲』データハウス,p160-)

1975年 郷ひろみ(移籍)

人気絶頂の中で事務所の移籍を決心したのが郷ひろみ

率直に言おう。仕事に対する考え方が事務所とぼくとでズレが生じてきたってことなんだ。
ぼくはファンの人達に夢を与えるアイドル・スターだ。でも、たんに夢をあたえるというだけでいいのだろうか。自分の人間的な面をふくらまして、ファンとコミュニケートするなかから、ファンの人達とぼくとがいっしょになって夢や喜びをつくっていく。そういう形にならなければ、まもなく壁にぶつかるのではないか。そのためには、もう少し余裕がほしい。自分の考えを基礎にして方針を立て、仕事の見通しをもちながらやっていきたい。そんな願いと不安が重くのしかかるようになってきた。
(中略)
そのときは人気がある。売れている。だが、それで押していっても、すぐ限界はくるような気がする。ぼくが進歩することで、ファンが進歩する。ファンが前進することで、ぼくが前進する。そういうかたちで楽しさや感動のエンターテインメントのかたちになっていない。そういう方向にもっていこうとする姿勢は、事務所にはない。
(中略)
事務所を変わって、精神的に自立する場を確立して、再出発しよう。考えはそういう方向に向かっていった。(郷ひろみ,1980年『たったひとり』小学館,P112-)

1978年 フォーリーブス(解散)

デビュー10年目で解散を決意したのがフォーリーブス。余談ですがメンバーの青山孝は解散直前に結婚し、TVで披露宴が中継された"既婚アイドル"でした。

インタビューのたびに、「解散なんか絶対しません」と言い続けてきた。だがメンバーの年齢を考えるといつまでもアイドルグループのまま歌って踊ることには無理がきていたのもまた事実だった。デビューの頃からのファンはすでに結婚して主婦となっているのも珍しくないほど年齢は上がっていたし、新しく誕生するアイドルに移っていくケースもある、当然コンサート会場の動員力も次第に落ちていった。
ジャニーズ事務所からも相次いでアイドルが登場してくるにつれて、フォーリーブスはだんだん肩身が狭くなる。
(中略)
グループでやっていると互いに甘えがでてくる、自分のやりたいことも仲間のことを考えるとついブレーキを踏んでしまう。(中略)4人のなかにちょっとずつ芽生えた独立心、それが微妙に4つのタイヤのバランスを狂わせるともうクルマは以前のようには走らなくなる」(北公次,1988年『光GENJIへ』データハウス,P167-)

「何歳までマネージメントをしてもらえるのですか」

こう聞かれても、わたしの経験では、「自分の判断で決める」とだけしか答えられません。
ジャニーズ事務所に"定年"はありません。ジャニーさんはけっして「やめなさい」とはいいません。すべて各個人の最終決断に任せているからです。
このままでいいのか……とタレント本人が意識する、または、ジャニーズ事務所の中での自分の位置や将来に関して"非常ベル"が鳴っている、そう感じたときが、やめるかやめないかの境目となるのです。(江木俊夫,1997『ジャニー喜多川さんを知ってますか』ベストセラーズ,P80)

1979年 豊川誕(移籍)

孤児であり、施設出身だったことを強調された売り出し方に疑問を持っていた豊川誕。

先に、売り出し方について自分自身、とても不満だった、と書いた。
それが表面化してしまったのである。
ぼくがジャニーズ事務所で出した最後のシングル・レコード『白い面影」が、事の起こりだった。
「親のない子は
 焼かないパンを喉に詰まらせ
 水を飲む」
(中略)
それまで不満を言いながらもジャニーズ事務所の宣伝をガマンしてきた僕も、この歌を唄い続けることには、どうしても耐えられなかったのだ。
自分自身に嫌気がさした。
ジャニーズ事務所に不信感が芽生えた。
これ以上「豊川誕」を演じることは、僕にとって重荷になっていた。(豊川誕,1975年『ひとりぼっちの旅立ち』,鹿砦社,P99-) 

1988年 シブがき隊(解散)

ぐっと年代が下がったシブがき隊*3。今も活躍している3人はかなりの円満退社だったようです。

徐々にグループの活動が少なくなり、僕たち三人の中に、"解散"という文字が浮かびあがってきた。(中略)レコード会社の人たちとの雑談の中で、"解散"という雰囲気が漂った。誰ひとりとして"解散"という言葉は使わなかったが、誰しも感じていた。(中略)
それからぼくはいろいろ考えた。シブがき隊というのは自分たちの財産でもあるし、武器にもなると思った。ドリフターズみたいに、個々の活動をしながら『ドリフの大爆笑』(フジテレビ系)で年に何回か集まるというスタイルが、ぼくは絶対に好ましいと思った。(中略)
初めて"解散"という言葉を口にしたのも本木だった。僕は、「解散はしないで、ドリフターズみたいなスタイルで……」と主張したが、本木の意志は固かった。布川も悩んでいたが、どちらかと言うと、本木の意見に賛成していた。(中略)
解隊が決まってから、僕の場合は最後まで、ジャニーズ事務所に残るという話はあった。でも、このまま残っても、トシちゃん、マッチがいて、少年隊や男闘呼組もいたし、ちょうど光GENJIの人気が出てきたときだったから、"こういう中で、自分がひとりで残ったとして、どこのポジションに入れるのだろう?"と考えた。(薬丸裕英,1998年『パパははなまる主夫』集英社文庫,P125-)

1989年 川崎麻世

フォーリーブスの後にソロアイドルとして活躍していた川崎麻世。たのきんが出てきてからはアイドルを脱皮し、東宝や四季と舞台に立つなど息の長い活動をしていました。しかし、交際していたカイヤの妊娠が発覚、事務所を辞める決心をします。かなり情報はしぼっていたようで、周囲にも内緒のままアメリカで第一子誕生。結婚していなかったため、帰国時には「川崎麻世、未婚の父に」と話題になったそうです。

「ここまできたら、産むしかない」
アイドルで売る事務所が、未婚の父親を認めるわけにはいかないことは容易に予想できた。
「事務所を辞めさせてください。ここまで大きく育てていただいたにもかかわらず、こんなことになって申し訳ありません。ぼくはもっと成長するために勉強をしにアメリカに行きます」
ジャニーズ事務所に、自分の方から契約を打ち切ってもらうようお願いにあがった。(川崎麻世,1999年『カイヤへ!』マガジンハウス,p29)

1994年 田原俊彦

たのきんトリオとしてジャニーズを支えた田原俊彦は33歳の時にジャニーズ事務所から移籍。

僕は基本的にジャニーズ事務所ティーンエイジャーのための会社であるべきだと、思っている。今も三十代のタレントがいないわけではないし、いろいろな考え方があってもいいとは思うが、あくまでも、僕個人としては30歳をすぎたら事務所にお世話になるべきではないと考えていた。
もし、僕があのまま事務所にのこった場合、どうなっていただろうと考えることがある。現役を引退して後輩を指導したり、管理職的な立場になったりということもあるかもしれないが、そういう考えにはなれなかったのだ。(田原俊彦,2009年「職業=田原俊彦」ロング新書,P100)

1994年 光GENJI(脱退)

光GENJIは1994年に大沢樹生佐藤寛之が脱退、5名で活動を続けるも翌年に解散となっています。

アーティストが年をとっていけば、ファンも年をとっていく。成長していくファンに合わせて、アーティストもまた成長していかなければならない、というのが俺の考えだった。だが信じられないような成功を収めてしまった光GENJIは、いつしか新しい方向を探すのをやめ、かつて成功したパターンを繰り返しているだけになってしまったように俺には見えた。古いファンが光GENJIに関心を失っていっても構わず、小・中学生の新たなファンが寄ってくるのを待ち構えているーー後期の光GENJIの戦略を、オレはそんなふうに受け止めるようになっていった。
だが今にして思えばアイドルが、もしくはアイドルを抱える事務所が、そっちの戦略のほうを選択したとしても、責められるような話ではない。たぶん俺はアイドルになりきれなかったアイドル、光GENJIを演じきれなかった光GENJIなのだろう。
その頃から次第に”脱退”の二文字が、頭の中でちらつくようになった。(中略)
本当にジャニーズ事務所がタレントにやりたいことをさせない、懐の狭い事務所かどうかは、今のジャニーズタレントを見ればわかることだ。つまり俺が事務所を説得する努力を放棄して、一方的にきれてしまったというのが脱退の真相なのかもしれない。(大沢樹生,2008年『昨夜未明、大沢樹生が死にました…』カンゼン,p75-)

1995年 光GENJI(解散)

94年、光GENJIから大沢と佐藤寛之が抜けて、SUPER5が結成されたが、オレは、自分たちのグループが7人でなければ、「心の体力」がもたないと感じていた。頭ではなく身体がそれを感じ取っていたのだ。(中略)
俺たちはある意味で、アイドル界のトップの座をとってしまった。そうなったら、後は落ちていくしかない。そんな恐怖感を抱いていた。それはたぶん、他のメンバーも感じていたに違いない。このまま走れるわけがない、滑り続けられるわけがない、と。(中略)
俺が(解散コンサートをするかの)即答を避けていたのは、さっきも書いた「あの二人はいらなかった」という(レコード会社の)発言に対しての引っかかりと、解散を思い止まれという声と、解散コンサートをやれという2つの声が同時に聴こえてくることに対する不信感があったからだ。
周りの人は俺をなんとか説得しようとはするけれど、ちゃんと納得させてくれる人は誰もいなかった。おだてるだけで、誰一人、殴ってでも解散を阻止してやるという人はいなかった。(諸星和己,2004年『くそ長〜いプロフィール』主婦と生活社.P117-)

はい、いろいろな解散・脱退・移籍の形がありましたね。読んでいるとなかなか辛い気持ちになってきますが……全体の傾向については、次の記事へ!お願いします!

*1:余談ですが、解散を決意→帰国→アソシエイションがNever My love発売……という流れだったらしい

*2:『ハイ!どうぞ、ジャニーズタクシー奮闘記』

*3:この間もいろいろいましたが、本を出してはいない